フラワーレメディの創始者として知られている
エドワード・バッチ博士。
もともと彼は、外科医・細菌学者として
高い評価を受けていた医師でした。
研究者としての経歴も華やかで、
順調な人生を歩んでいたように見えます。
それでも博士の心の中には、
消えない疑問が残っていました。
症状が消えても、
本当にその人は楽になっているのだろうか。
痛みが治まっても、
心の奥にある不安や緊張がそのままなら、
また別の形で不調は現れてしまう。
身体だけでなく、
もっと深いところにある何かに触れない限り、
癒しは完成しないのではないか──。
この違和感を無視できなくなったとき、
彼は築き上げてきた地位や肩書きを離れ、
自然の中へと歩みを進めていきます。
森や野原を歩きながら、
風に揺れる野の花をじっと見つめていると、
心のどこかがふっとゆるむ瞬間があります。
バッチ博士は、
花の香りや成分といった目に見えるものではなく、
もっと淡い「気配」のようなものに
耳を澄ませていたのだと思います。
ある花は、不安のさざ波を静かにしずめるように。
ある花は、怒りの奥にある疲労をやわらげるように。
ある花は、先の見えない心にひと呼吸を取り戻すように。
花が持つ性質と、
人の感情の動きが
どこかでそっと重なっている──。
この重なりを丁寧に見つめていく中で、
フラワーレメディの原型が形づくられていきました。
フラワーレメディというと、
つい「この花は何に効くのか」という
使い方に目が向きがちです。
けれどバッチ博士の言葉を辿っていくと、
その奥には一貫した考え方があります。
癒しはレメディが起こすのではなく、
その人自身の内側から始まる。
だから博士にとって、花は
その人が本来の自分へ戻っていくための
ひとつの 入り口 にすぎませんでした。
ある人は、花という入り口と出会う。
別の人は香りや音という入り口を通って戻っていく。
またある人は、身体に触れられる感覚が入り口になる。
大事なのは「花であること」ではなく、
その人の内側がふっと応える瞬間があるかどうか。
バッチ博士が見ていたのは、
レメディそのものではなく、
その先で起きている人の変化だったのだと思います。
この博士の考え方に触れると、
「癒し」というもののイメージが
少し変わってきます。
ある人は、
やさしい香りに包まれると、呼吸が自然に深くなる。
ある人は、
背中や首にそっと触れられることで、
ずっと張りつめていたものがほどけていく。
ある人は、
音楽や光の揺らぎの中で、
心のざわつきが静かになっていく。
そのどれもが、
その人にとっての入り口になり得ます。
フラワーレメディは、
花という形を通して
その入り口を見つけるための方法。
でも本当は誰の中にも、
もともと自分へ戻るための道が
静かに用意されているのだと思います。
花を通して人を見つめた彼の世界は
とても静かで
どこまでも誠実です